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スラップスティック/カート・ヴォネガット

それまでジュニアつきだったヴォネガットからジュニアが取れたカート・ヴォネガット名義初の本「スラップスティック」(1976年)です。
スラップスティック」とはそのままドタバタ喜劇−−荒唐無稽・ナンセンスの意味がありますが、ナンセンスや荒唐無稽につきものなニヒルやアイロニーとは程遠い、サブタイトルに「もう、孤独じゃない! Lonesome No More!」のスローガンがぴったりくる、限りなく優しいSFの傑作でした。

何より、エピグラフがこれです。

"愛すると一言いってください、それだけで私は、新しく生まれ変わります…"−−ロミオ

「わたしがこれほど自伝に近いものを書くことは、もう後にも先にもないだろう」といったプロローグから始まり、ヴォネガットお得意の断章形式で亡くなった姉への思慕が綴られていきます。

わたしはいくらか愛を経験した。少なくとも、経験したと思っている。最も、わたしが一番好きな愛は、"ありふれた親切"ということで、あっさり説明できそうだ。短い期間でも、非常に長い期間でもいい、私が誰かを大切に扱い、そして相手もわたしを大切に扱ってくれた、というようなこと。愛は、必ずしも、これとかかわりを持つとは限らない。
もう一つ−−わたしは人間に対する愛と、犬に対する愛の区別がつかないのだ。
子供の頃、コメディアンの出る映画を見たり、コメディアンの出るラジオを聞いたりしていない時のわたしは、うちで飼っていたやたらに人懐っこい犬たちと敷物の上をごろごろ転げまわって、長い時間を過ごしたものだった。
今でも、わたしはよくそうする。
<略>
あるとき、わたしの三人の養子のひとりで、平和部隊に加わってまもなくアマゾン多雨林に出発することになった息子が、二十一歳の誕生日に、わたしに向かってこういった。「そういえば−−父さんは一度も僕を抱きしめてくれたことがなかったね」
そこで、わたしは息子を抱きしめた。ふたりでお互いを抱きしめあった。とてもいい気分だった。むかし飼っていたグレートデーンと、敷物の上を転げまわっていたときに似ていた。
カート・ヴォネガットスラップスティック―または、もう孤独じゃない』より

ここに登場する息子が姉が遺していった息子のひとりだったりするわけです。
ヴォネガットは言います。

本人に向かってそういったことは一度もないが、わたしはいつも姉に読んでもらうつもりで小説を書いてきた。もし、わたしが何らかの芸術的統一性に達しえたなら、その秘密は姉にある。<略>
そう、優しいことに姉は、それとも、優しいことに自然は、姉が死んでから何年にもわたって、わたしに姉の存在を感じさせてくれた−−姉のために小説を書きつづけることを、わたしに許してくれた。
カート・ヴォネガットスラップスティック―または、もう孤独じゃない』より

プロローグの最後に世界設定の説明がされ、物語が始まります。
「−−関係者各位へ」といったでだしで。
大まかな粗筋ですが、長身の元大統領の老人の自伝という形で、大金持ちの家に双子の姉とともに生まれ、後に大統領になっていきます。しかし、ある日突然、地球の重力が強大になり、そこへ伝染病が現れ、世界の秩序は混乱し、もはや国家が崩壊した未来が舞台になっています。
で、そんな風に無茶苦茶な設定に話も荒唐無稽だったりするのですが、主人公が幼少を一心同体に過ごし、後に離れ離れになってしまった双子の姉・イライザとの再会のシーンは小説の白眉とも呼べる場面でした。(ネタバレっぽいので反転)

ヘリコプターがわたしたちの真上に出現した。これも、照明弾のぎらつく光で寓意を持たされ、恐ろしい機械の天使に変貌していた。
それに乗っているのは、ハンド・スピーカーを持ったイライザだった。

ひょっとするとイライザが上からわたしを銃で撃つか、それとも糞尿を詰めた袋を投げつけるかするのではないかとさえ、わたしは思った。しかし、イライザがはるばるペルーからやってきたのは、シェイクスピアソネットの半分を、わたしに贈るためだった。
「聞いて!」とイライザはいった。「聞いて!」それからもう一度、「聞いて!」といった。
このあいだに、照明弾はすぐ近くで消えかかっていた−−パラシュートが木の梢にひっかかったのだ。
イライザが、わたしとその近所一帯に告げた言葉は、このようなものである−−
「君が私のよりよい部分であるなら ああ どうして
 私は君の真価をつつましく歌うことができようか
 自分自身を賞賛したとて 何になるものでもないが
 私が君を誉めるのは 自己賞賛でなくて何であろうか
 だからこそ われわれは 別れて生きようではないか
 われわれの愛は一つ と呼ぶことをやめようではないか
 この別離によって 君はほんらい君ひとりに所属すべき
 君の当然の持ち物を 確保することができるのだ」

わたしは両手でメガホンを作り、イライザに向かって叫んだ。「イライザ!」それから、わたしはとても大胆なことを、そして生まれてはじめて胸の奥底から感じたことを叫んだ。
「イライザ! 愛してるよ!」と、いったのだ。
あたりはもう闇に戻っていた。
「聞こえたかい、イライザ?」わたしはいった。「愛してるよ! ほんとに愛してる!」
カート・ヴォネガットスラップスティック―または、もう孤独じゃない』より

オイラはこういうシーンに弱いのです。純情なのかな。つか、シチュエーションもセリフも演出も、何もかもが好きだ。すごく感動した。


その他にも主人公が大統領になったのち、「もう、孤独じゃない!」というキャンペーンを展開します。国が国民一人一人に新しい苗字を与え、その苗字と同じ人はみんな家族や親戚になる、といった制度ですが、これに関するエピソードもウイットに富んでいて、面白かったですが、このスローガンは実際にヴォネガットが選挙応援の時に依頼されて作ったけれども没にされたスローガンなんだそうです。
いいスローガンだと思うんだけどなあ。かわいいし。というか、ヴォネガットらしい。

話はそれるけど、「文は人なり」というように、作品それ自体に「人となり」って本当によく現れると思う。
見抜く力に個人差はあれど、漫画家なんか特に判別しやすい。その中でも同人作家は顕著で、どういう思考回路を持っているか、薄情かどうかさえ分かる。裏切りやすい奴か、権力に弱いか、漫画を愛しているか、差別主義者か、ナルシシストか。
それらは、漫画のメッセージそのものから読み取るんじゃなくて、漫画そのもの、とでもいうのか、コマの隙間みたいなところに案外零れ落ちてるんで、同人サイトだったらイラスト1枚で大体分かるもんです。つか、そんなこと誰でもできるか。
これが分かってしまうものだから、そこで好きな作家、嫌いな作家が別れるんですよ。
誠実な人ってのは、絵や技術が下手でもにじみ出ているから、嫌いにはなれなかったりする。逆にどれだけ評価が高かったり、人気があっても、人間性が見えてしまったりするものだから、好きになれない、時には憎悪する作家もいるわけです。

おっと、話を戻すと、この作品でもヴォネガット作品によくあるキーワードがあって、それは「ハイホー」と「もう、孤独じゃない!」と
「てめえなんざ、ころがるドーナツとおまんこしてろい! 飛び上がって、空のお月さんとおまんこしてろい!」かなあ。うん。

何だか、とっちらかった感想だけど、読んだほうが早いとでも言っておこうか。つか、とてもよかった。読んだあとはなんというかなあ、何かを愛したくなりますよ、とでも言っておこうか。そして、「孤独じゃない」という言葉がじーんときますよ、とでも。
ところで、「スラップスティック」って聞くとどうしても「これ」を思い出してしまうけれど。

うる星やつら (1) (小学館文庫)

うる星やつら (1) (小学館文庫)

これぞ日本が世界に誇る「スラップスティック」の傑作ですね。
<複>カート・ヴォネガットスラップスティック―または、もう孤独じゃない』(文庫)★★★★