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コメントを書きこむ前に、こちらの記事に必ず目を通してください 「処刑宣告

パクリ問題について

先日書いた、パクリ問題についての補足。
2ちゃんねるを発端に始まる一連のパクリ問題で以前から不思議に思っていることがある。
ちょっと前に話題になった末次由紀という少女漫画家の井上雄彦トレースの検証サイトを見ても思ったのだけれど、絵の雰囲気・画風はまったく井上雄彦に似ていない。
一点、黒い部分があるとすればそれは「重ねたら重なった」ということだけである。ここがどうしてもひっかかる。いつも首を傾げざるを得ないのだ。

この問題については竹熊健太郎が「たけくまメモ」で詳細にわたって漫画家を弁護している。創作に携わるものとしてほぼ同感(フォトライブラリー云々はがんばってやってくれ、といったところ)で、結論から言うと、漫画だけでなく、小説、映画、音楽あらゆる文化に言えるが、われわれが新しいものに接する時、それは必ず「今までの体験に寄与した何か」であるといった大前提がある。
いくら目新しいと言われるものでも、それに接した時、われわれは必ず「懐かしい、どこかで会ったことがある、また会えた」といった既視感を伴い、だからこそ、それを愛し始める。
といった前提を基にすると、構図が似ているだけの問題はまずここにひっかかる。
しかし、こうした既視感が今や悪として糾弾される事態は、ぶっちゃけ異常だ。

ピカソ 剽窃の論理 (ちくま学芸文庫)

ピカソ 剽窃の論理 (ちくま学芸文庫)

ちょっと話はそれるけど、こうした既視感を巧妙に利用し、さらにそれをばれることなく、頂点に立った人がいる。それはピカソだ。ピカソは若い頃からずば抜けて絵が上手かったけれど、その当時から彼は構図パクリをしていた。
彼の有名な絵で剽窃をしていない絵はほぼないといっても過言ではないくらい有名な絵画の構図を盗みまくった。しかし、あの絵、ですから、ばれることはなかったわけ。で、この本の筆者が言うには、ピカソは稀にオリジナルで構図を描くこともあったが、パクったやつよりは全然魅力がないのだそうだ。

さて、それでは末次さんの絵柄というのは、これは伝統的なフレンド系少女漫画絵なわけで、その「伝統的」な少女漫画絵という既視感によって読者がいた。絵柄の相似では井上雄彦とは何ら接点さえ見出せない。
逆に井上雄彦の『スラダン』は、NBAを移植したかのような既視感で読者を魅了した。(で、結局写真トレスだった…)
つまり、かつての著作権問題というのは、この既視感が取り沙汰されていて、「いきすぎ」の部分で議論されていた、ように思う。のまネコの問題はこれだった。

しかし、末次氏に見られるトレス問題が歪なのは、何らこの「いきすぎた既視感」で取りざたされていない問題なのです。
そこで、こういう反論が出てくる。上に絵を重ねてなぞるトレースは「黒」だが、構図パクリは「グレー」で、重さが違う。
いや、違わないだろう。
そういうプロセスとか製造過程の問題じゃないと思うんですよ、実際は。

で、「たけくまメモ」のコメント欄を見ていて、とても参考になる意見を言っている人がいた。

みなさん様々な論点から多数の意見が出ている中 場違いな意見を出すことをお許しください。
まず最初に 僕は末次さんのことを非常によく知っている人間です。
はっきり言って今回の件について末次さんのやったことについての処分の大きさについて 今の僕はそれほど関心がありません。全作品の回収・絶版なんか気にならなくなるくらい心配なこと・・・ それは末次さんの受けた精神的ダメージです。
みなさんは2chでの末次さんと2チャネラーとのやりとりをご覧になったでしょうか?
孤立無援の状態で 罵声や叱責はもとより生理的からかいや人間差別と呼べるほどの非難の嵐の中 正気を保っていられる人がどれほどいるのだろうか・・・ 末次さんが何年も手がけたご自身のHPをめちゃくちゃに荒らされたときの心境を測れば 痛くも痒くもないはずの僕自身でさえ発狂・失神しそうになります。
 漫画家としての未来よりもまず先に 末次さん自身の生きていく力がどれほど残っているものか 今も心配で心配でなりません。

名前: SS | 2005年10月21日 午前 01時10分
http://takekuma.cocolog-nifty.com/blog/2005/10/post_9358.html

やはり、結局私怨ですね。
単に人格攻撃じゃないですか、と。それを著作権問題とすり替えてませんか、というね…。

なぜこういう話の時に池上遼一先生が代表的な免罪符として例に挙げられるのか、その辺にクリエーションの鍵がありそうです。自分が発して、人が受け取る、関係性のクリエイティビティ(時代背景も含み)という軸も必要になりそうです。

名前: 元プロアシ | 2005年10月20日 午前 10時23分
http://takekuma.cocolog-nifty.com/blog/2005/10/post_9358.html

うん、この人は鋭いね。これは著作権ではなく「関係性のクリエイティビティ」でしか語れない問題だと思います。

で、こうした2ちゃんねるの検証サイトは多くあるけれど、その中のほとんどがこうした絵柄・画風はまったく似ていないのに(おそらくトレースは事実であろうとしても)、槍玉にあげられてしまう点で、やはりこれは剽窃問題ではなく、人格攻撃の道具として使われているということだ。

例えば、パクリ問題に火をつけた感のある「CLAMPトレース」の人ってのは、先日の宇田多ヒカルと倉木麻衣問題に共通する酷似があるので、重ねなくてもわかる。池/上/茜タンもそうだね。重ねる必要もないけど、重ねたら重なったって、鬼の首とったみたいに騒ぐなよ、アホか、って感じもしたけど。
つまり、今のパクリ問題は大きく分けて2つある、ということだ。
・いきすぎた既視感によって問題にされるパクリ(例:のまネコ
・ぱっと見では似ていないけどトレスだったパクリ(例:末次)
といった風に。
さらに、前者は本来の著作権が作用している感があるが、後者の人格攻撃の道具として利用されるパクリ問題で特徴的なのは、パクリ問題で騒ぐのは女性で、彼女達は(当事者を度外視して)「パクリ作品を読まされた私たちは被害者、謝れ!」といった不思議な主張を繰り返すという点だ。オイラはフェミニストなのだが、正直、女性のこうした「過剰なまでの被害者意識」を見ていると、男女差別を助長するのは女性のこういう言動にあるのではないか、だから、野郎どもは女を馬鹿にするんだろうな、と思ってしまいます。

先日書いた、パクリ事件は所詮はムラビトの事件なんすよ、という発言はこのことを指していて、結局、ムラビトさんの正体は被害意識から連帯した<被害者同盟>なんですよ。

日本人は「被害者意識の塊」と欧米の知識人はよく指摘する。それは戦後の反戦教育にもよく現れていて、加害者教育をまったくしてこなかった。原爆原爆そればっか。罪のない人々がいかに酷い目にあったかを喧伝しまくった。そうした平和教育の結果が今の9条破棄論という成れの果てを作り出した。
もし、加害者教育を徹底していれば、たぶん、変わっていたと思う。自分と同じ民族が殺人者になったのだ、と教えられていれば、平和に対する考え方ももっともっとマシなものになったはずだと思う。

話がそれたけど、こうした被害者意識はコンプレックス、劣等感から成り立つ非常に屈折したルサンチマンだと思われる。ルサンチマン集団の皆様がパクリ問題の主軸を成す。
これってものすごく嫌な現象でないか。結局こうした事件の性質は解同問題と変わらないわけで。解同は本当の<被害者同盟>だったけど、パクリで騒ぐ人たちはさらにたちが悪くて、何の被害も受けていないのに被害者だと言い張る、原告適格から遠く離れた人々なんですよ。
そうしたルサンチマン集団に昔から弱いマスコミという情けない権力がこの問題を根深くしているわけです。
「〇〇先生を信じていたのに裏切られた! 騙された!」といった主張を聞いてオイラが目が点になるのは、それが露呈するまでは少なからず面白いとか好きだったんであれば、どうして、その頃の自分を信じてあげられないのか。
ま、人の生き様にいちいち口出しはせんが、自分が被害者である、と思って生きるか、被害者ではない、と思って生きるか、それで人となりは変わってくると思うのです。

ロリータ (新潮文庫)

ロリータ (新潮文庫)

あとね、この前話題になったミステリー作家飛鳥部勝則の『誰のための綾織』の三原順の引用問題も、あれもなー、だったら誰かナボコフの『ロリータ』訴えてよ、って感じ。
あの小説なんて、引用しまくっているよ、あらゆる小説から。ナボコフは引用しました、なんてのもゲロってないし、誰からも騒がれたりしてないんだけどな。外国人だから、過去の作品だから、という理由は何の免罪符にもならんと思いますけど。どうなんですかね、被害者の皆様。

あとね、作家側の態度も問題のある人もいると思うのですよ。
ちょっと前に買った同人誌の奥付に「トレース厳禁」って書いてあったの見たときは、正直ひっくり返った。
そゆこと自分から主張する人が、案外<被害者同盟>の一員で祭に参加している可能性は十分に高いんだろうな…嫌な話だ。