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日本-権力構造の謎(上)(下)

日本 権力構造の謎〈上〉 (ハヤカワ文庫NF)

日本 権力構造の謎〈上〉 (ハヤカワ文庫NF)

日本 権力構造の謎〈下〉 (ハヤカワ文庫NF)

日本 権力構造の謎〈下〉 (ハヤカワ文庫NF)

この本は読んだ当時にものすごく感動したし、間違いなくベネディクトの『菊と刀―日本文化の型 (現代教養文庫 A 501)』に並ぶ傑作だと思ったのですが、如何せん、大分前に読んだまま、感想を書かずにいたせいでその時に感じたことをほぼ忘れてしまっています。
なので、当時書きかけた日記と引用が見つかったので、転載しときます。

日本人は浮世絵のように、都合よくデフォルメされた曖昧な自画像を好んできた。そこへ本書が現れて、お前は胴長でにやけた猿顔だと、現実をつきつけたのだ。言われてみればそれが、欧米の正当な理解だろうと納得するしかない。
橋爪大三郎の解説

日本の国会審議は民主主義的雰囲気を改めて作り出すパフォーマンスであり、国政の展開にはほとんど影響力を持たない。
ひとことでいえば、日本の国会における野党は、ギリシャ悲劇のコーラス役のようなものなのだ。この国の政治について百年一日のように繰り返される単調な説明、そして自民党の道徳上の罪(シン)の数々を嘆くことばは、あくまでも儀式的であり、毒にも薬にもならない。
日本の議会政治を批判した部分

しかし市民であることを自覚している日本人、つまり政治的権利とともに義務をも有する、政治勢力の一単位たる市民層が、かかわりのある問題について敏感になり、議論しつづけるだけで、彼ら自身が想像しているよりはるかに多くをなしとげることができるのである。
<略>
つまり、自らの先行きに大いなる関心をもつ、知性ある普通の人々から生じるべきなのだ。
<略>
このことからしても、「仕方がない」で済ませてしまう態度こそが、つまるところ日本の政治にとって最大の問題なのである。
必要な政治議論を始めるための第一歩は明らかだ。権力者への問いかけである。官僚や経済団体の経済官僚たち、それにいくつかの政治家グループに対して、彼らが今何をしているのか、彼らが考える日本の向こう先、そしてその根拠を問いただすのだ。国民は政治家を通して権力を行使する意志のあることを強く主張しなければならない。
<略>
政治家の役務は日本人の総意を代弁することにあり、人々の将来に気を使うことになる。自分の選挙区だけしか考えないものは政治家として劣るということも、彼らに常に思い出させなくてはならない。
<略>
本書の日本語版単行本が発刊された後、私は政治が本当によくなりそうだという希望を改めて実感することができた。それは、日本の各所からの手紙や、あるいは直接話し合った多くの日本人を通して私が得た感触である。彼らの多くは静かな絶望を抱いていた。しかし同時に、日本の政治を作り上げていこうという強い意思が彼らをはじめとする人たちから伝わってきた。これこそ市民としてとるべき正しい態度である。それはとりもなおさず、この本の中でこうした声があることを知った読者が、日本の政治を再生させようと考えはじめ、そして今後起こすべき多くの事柄について議論をしたいと考えたとき、将来仲間として手をたずさえていける人たちが他にも多数いるのだという心強い事実を告げていることに他ならない。
日本語文庫新版への結び「日本の市民の力」

(引用太字はすべて引用者による)
<自分で書いたメモなのか引用なのか不明ですが要約になっているので掲載>
日本には権力を握る最高決定機関、最高権力者が存在しない。政治家、官僚、経済界、マスコミは力の均衡を計りながらも究極的な責任主体はどこにも存在しない。日本人の無責任体質は、こうした誰も責任を取らなくてもいいといった仕組みから生じるものだ。
故に責任を取るもの不在の体制に「国家」は存在しない。あるのはあらゆるものを監視し支配する巨大な「システム」だけである。

それは広範に国民を統制管理し続ける。そこから外れるものは常におどされつづけ、権力の脅威に晒される。故に日本人は生まれた時から現実を管理させられ、服従のシステムに取り込まれ、あらかじめ自由を剥奪されている。


<初>カレル・ヴァンウォルフレン『日本 権力構造の謎』(上)(下)(文庫)★★★★★