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愛人 ラマン

読書


愛人(ラマン) (河出文庫)

愛人(ラマン) (河出文庫)

マルグリット・デュラスとはロブ・グリエを代表するヌーヴォー・ロマンの女流大家であり、『モデラート・カンタービレ (河出文庫)』『破壊せよ、と彼女は言った ISBN:4309461123』(Amazonとタイトルが違いますが、昔はこのタイトルだった。中上健次の『破壊せよ、とアイラーは言った (集英社文庫)』のタイトルはデュラスが元ネタなので)の作者であり、『二十四時間の情事〜ヒロシマ・わが愛(Hiroshima mon Amour)』の脚本家であることを前置きさせていただいた上で、『愛人 ラマン』の感想を書きますが、この小説は、ジャン・ジャック・アノーの映画の方が原作より日本では有名ではないか、と思います。

関係ないけど、上映当時、何故、あれほど日本の映画雑誌は『愛人 ラマン』を賞賛したのだろーか。ジャック・アノーの評判のせいだったと思うけれど。(『薔薇の名前』とかは結構良かった記憶がある)
そのせいで、公開後の言われようはすごかった記憶が…。

愛人(ラマン) 無修正版 [DVD]

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どこかの雑誌でも、四方田犬彦(ヨモタイヌヒコ)が映画版をぶったたいていた。ジェーン・マーチを「売女顔」とぶったたき、デュラスはこんな淫乱顔じゃなかった、イメージ丸潰し、ジャック・アノーは無能だ、うんたらとな。確かに、小説の表紙はデュラスの18歳当時の写真でジェーン・マーチより美少女な気がするが…

で、デュラス自身も映画版をぶったたいていた。しかし、原作者が映画版をぶったたくのは海外ではよくあることなので、何も珍しくないのだけれど、アラン・レネと組んだり、自身が映画監督だったデュラスなら、あの映画をぶったたくのはたとえ原作提供者じゃなくても分かる。

ぶっちゃけ、映画版は「半ポルノ」の域をでなかったからな。ハーレクイン・ロマンス的叙情が好きな人には、うってつけの映画だったけれど、既存のデュラス好きにはかなり厳しい映画になっていたから。
だからって、アラン・レネみたいに撮ったら、絶対にヒットしなかったことは確かだし、デュラスの晩年の遂に!ブレイク現象もなかったから、どっちもどっちなわけですが。
自分としては、デュラスが認知されることに越したことはないので、いいと思っていたけれど、なんつーか、デュラスの話をしても、「エロ映画の原作者」くらいの認識しかされていないので、複雑ではありますが。

それでも、この本自体、フランスの文芸作品としては珍しく日本でも破格に売れたようです。初版から4版までのスパンが3ヶ月しかないのがその証明です。

で、この小説あるいは映画のせいで、マルグリット・デュラスという作家のイメージは、日本ではサガンに並べて評されるようになってしまったわけですが、デュラスは果てしなくマイナーな前衛作家です。マイナーというのは、難解であり、一般的ではないという意味でありますが。
デュラスの文体は基本的に短文。ヌーヴォー・ロマンは全体、そうだった記憶があるけれど、人の記憶や意識をさかのぼったり戻ったり、間違えたり、正しかったりということを繰り返すような記述が多く(アラン・レネの『去年マリエンバードで』などが代表的。ヌーヴォー・ロマンは1960年ごろフランスであった芸術運動)、デュラスもこの小説では記憶の糸を紡ぐような、長い叙事詩のような作品になっています。


時々、記憶が曖昧になったり、矛盾したり、ゆらゆら揺れる糸のようになったり、突然、映像的になったりする。
そうして、『愛人 ラマン』という小説は、映画でもおなじみの20世紀初頭の仏領時代のインドシナを舞台に、主人公である15歳のデュラスと華僑である金持ちの中国人青年の性描写は出てくるけれど、作品の大半はデュラスの家族描写に費やされていて、どちらの印象が強いかといえば、間違いなく気の毒な家族のほうなのです。
後年、デュラスの死後に発表されたドキュメンタリーでデュラス自身が「映画で相当に誤解された」と述懐しながら、「わたしは実の兄である下の兄(太平洋戦争時に戦死)を本当に、心から愛していた」と近親相姦愛を告白していたのが印象的でした。

で、全体的な印象としてはもっぱら『二十四時間の情事』を思い出したりしたわけで。
つまり、華僑の青年は『二十四時間の情事』の日本人男性(これは、 岡田英次が演じていたな)に相当する役割で、ヒロインのデュラスは、『二十四時間の情事』のヒロインとダブるというか。
『二十四時間の情事』という映画は白人女性が敗戦直後の広島にきて、そこで出会い、一夜をともにした日本人男性に自分の忌まわしい過去を打ち明けるというストーリーなのだけれど、白人女性とアジア人の組み合わせが被っているせいか、『愛人 ラマン』自体もそういう構造で読んでしまったわけです。

原作の『愛人 ラマン』はやはりものすごくデュラスらしい小説だと思いました。つまり、『愛人 ラマン』という小説は、「暴露本」「自伝告白本」といったものに分類されるような類ではなく、一貫して記憶をモチーフにするヌーヴォー・ロマンらしい小説だったというわけです。

華僑青年との性愛劇とか、そうゆうところばかり都合よく拡大解釈したがる読者は多いとは思いますけど、その読み方は偏っているよ、ということを付け加えさせていただきますわ。
さらに言うと、この小説はやっぱり衝撃的なスキャンダル性を持っていたのは、アジア人と白人の性愛というのが、タブー視されていたからなんだろう。トマス・ジェファソンの黒人奴隷のメイドとの恋愛と似たようなものか。

ちなみに、オイラは『モデラート・カンタービレ』が好きです。これは短くて(『愛人 ラマン』も相当短いけど)読みやすいし、話も分かりやすいし、お勧めです。


<複>マルグリット・デュラス愛人(ラマン) (河出文庫)』(単行本)★★★1/2