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総員玉砕せよ!

総員玉砕せよ! (講談社文庫)

総員玉砕せよ! (講談社文庫)

今いる日本のマンガ家全員を強引に2つに分類するならば、「手塚派」と「水木派」の2派にしか区分されない。
つっても圧倒的に後者の方が少ないんだけれど。

この区分は簡単に言うと、「物語重視」か「キャラクター重視」かということなんだけど、手塚派はぶっちゃけ言うと悲観主義というか、運命論者が多い。良くも悪くも説教好きで、作品が妙に説教くさくなってきたり、風呂敷広げすぎたりするパターンが多い。
そもそも手塚治虫という漫画家がそうだったからなんだけど、漫画としてみても、キャラクターがストーリーを動かす為の装置になっていて、激しいキャラ立ちというのはめったにお目にかかれない。
絵よりも内容が先行する漫画家に手塚系は多いです。

対して水木派と言うのは、ぶっちゃけキャラクターしか見るべきところがない。
ストーリーとか内容とか考えたり、意味を求めたりするだけ無駄。無駄だと言い切っているところがこのタイプの作家のすごいところなんです。
これこそ非凡であることの証明なわけです。

とにかく、オイラを見てケロ、という自己顕示の固まりみたいなキャラが総出演する。で、読者としてもストーリーより、キャラクターしか印象に残らない。
だからか、内容より絵が先行する漫画家に多い気がします。

さて、ここでいう「キャラクター」と言うのは、大塚英志のいう「キャラクター小説」とはまったく意味が違います。
第一、大塚英志のいうキャラクター云々は、全然「質」というものを問わない時点でアウトだと思っているんで。
彼が良質な「キャラクターもの」を指す場合、それは「ストーリーテラーとして優れているキャラクター」にすぎないわけで、いわゆる先ほど述べたストーリーを動かす為の装置として優れているに過ぎないことを指しているわけです。
それと、「キャラ萌え」とも違います。そもそも他と似ていれば似ているほどよし、とされる量産型漫画に、キャラ立ちなど必要ないし、実際ない。

話がそれましたが、水木派の漫画家と言うのは、ドストエフスキー並に超越論的な天才しかいないわけです。だから少数なのは当たり前で、その最たる弟子が、池上遼一だと思うのだけれど、例えば、つげ義春なんて水木プロ出身だけど、キャラだちがすんごいわけではないし、彼は作品自体に完成度を求めているので、どっちかっていうと手塚系に入るのかなあ、とも思う。

で、ここで強調したいのは、漫画の神様と言えば手塚、手塚しかいない、という人が多すぎるという不満なわけで、本来なら水木しげるも同等に評価されるべき漫画家であり、天才性の点で言えば、手塚治虫は及ばないところもあるわけです。そう思っているのはオイラだけではないはずです。

だから手塚偏重的な評論をオイラは評価していない。手塚には手塚の壁があり、その障壁は乗り越えなければいけない壁であったから。
そりゃ、手塚治虫はすごい。しかし、彼の最たるマンガ界への貢献は「漫画を一般的にする、大衆的にする」ことであり、近代小説が言文一致体の発見によってものすごい進化を遂げたように、これはこれですごいことなんですが、水木しげるは「漫画に超越性を与えた」ことであり、これにおいて、手塚は残念ながらそれを超えられなかったと思うのだよ。それは彼の悲観主義がそうさせたと思わざるを得ない。
手塚は人間を信じているようで、まるっきり信じていなかった。人間同士の殺し合い、戦争は不可避である、それが手塚治虫の超えられない「壁」だったんじゃないかな、と思う。

しかし、水木しげるは違った。
だからこそ、『総員玉砕せよ!』はこんなに怒りに満ちているんだと思う。

さて、この漫画について少々解説すると、この作品、本人が一番気に入っているという言葉が頷けるとおり、後世まで残る大傑作であります。
水木しげるが面白いのは気合の入り方が漫画にでてしまうことで、この漫画は冒頭から気合がビシビシ伝わってくるあたり、本人がどれだけ思い入れをこめて描き上げたか伺えます。

内容はAmazonの解説を引用すると

昭和20年3月3日、南太平洋・ニューブリテン島のバイエンを死守する、日本軍将兵に残された道は何か。アメリカ軍の上陸を迎えて、500人の運命は玉砕しかないのか。聖ジョージ岬の悲劇を、自らの戦争体験に重ねて活写する。戦争の無意味さ、悲惨さを迫真のタッチで、生々しく訴える感動の長篇コミック。

となっています。

本書解説の足立倫行氏が実にうまくまとめているのでそちらを引用した方が、よく伝わるのではないかと思います。

登場するのは、善良だったり小ずるかったり猥雑だったり小心だったり居丈高だったりバカ正直だったりするごく普通の下級兵士たちである。彼らは日本本土から4600キロも離れた前線にいるというのに、"大東亜共栄圏建設"も"七生報国"も関係なく、目先のことのみ考えて日を送っている。
なぜならそれ以外の生活は許されないからだ。多少とも現状に疑問を感じたり、上官に質問したり口答えしたりすると、「ビビビーン」と殴り倒される。質問や口答えをしなくても殴られる。理由もなく殴られることが常態なのだ。しかも、身近に"死"がある。<中略>戦局とはおよそ無縁な犬死のような死である。
そんな彼らに、年若い支部長が「死に場所を得たい」と決意したため、玉砕せねばならない運命が襲ってくる。<中略>
最後の突撃の前に兵隊達がやり切れぬ思いで合唱するのは『女郎の歌』だ。
♪私はなんでこのような、つらいつとめをせにゃならぬ
巻頭で従軍慰安婦と兵隊が和して歌った哀歌が、全編を通じての基調低音となって切々と響く。

とまあ、これが大まかな概要です。

後書きにおいて本人が

ぼくは戦記ものを書くとわけのわからぬ怒りがこみ上げてきて仕方がない。多分戦死者の霊がそうさせるのではないかと思う。

と書いています。

足立氏の解説でも本人が
「私、戦後20年くらいは他人に同情しなかったんですよ。戦争で死んだ人間が一番かわいそうだと思っていましたからね」
と言っていたと書いていて、漫画を読んだ後にはこの言葉の重みがすごくよく分かる。

こんな作品を描いてしまっている水木しげるには頭が上がる漫画家や評論家なんて、いやほとんどの日本人がいない、と心から思います。京極夏彦が敬意を払うのは当たり前なんです。国宝級の漫画家だと思います。
カート・ヴォネガットとかもそうだけど(兵士として)戦争体験のある作家ってやっぱ普通の作家と全然違う。人間観がすごいんだよね。誰も敵わないなあ、と思います。

で、やっぱり水木作品を読むたび感じるのは、われわれの人生に意味などあるのか? といった命題に対して実に簡潔に応えてくれていることで、それは「意味なんてない」んだと。
あると思うから、小さなことを気にしたり、生きることがしんどくなったり、悲観的になったりするのではないか?
しかし「意味がない」と悟ってしまえば「死んでたって生きてたって世界は何も動じないのであれば、正直に、悔いのないように生きていこう」と考えるんだと、それが水木しげるの作品の精神的支柱としてあるように感じてならないわけです。

その意味において、水木しげるは人間を信じていると思うのです。