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ミスマッチ


青春の殺人者 デラックス版 [DVD]

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なんというか、最近、漫画に対するボルテージがさがる一方で困っております。
年とったからなぁ…いい年こいて、何もこんなことしていなくてもいいんでねーかな、という倦怠期のようなものです。
実際、オイラ一人が描くことをやめても何の影響もないというのが、寂しいんだろうし、漫画だけでなく、こういうものって天性というか才能の有無がどうしても求められてくるわけですが、残念、オイラはそういったものに恵まれていないわけで。いわゆる「オイラが死んでもかわりはいるもの」っていう作家の一人なので。
まあ、「やめないで」と潤んだ目で訴えられたら、思いとどまることもあるかと思うが、そういう人もいないだろうしなあ…

さて、今日は中上健次についてちょっと書いてみようかと思います。
知らない人のために念のため書いておくと中上健次(1946〜1992)は作家です。宇多田ヒカルが面白いと言っていた気がするが…
実質的には村上龍の兄貴的存在であり、村上龍自身も中上健次を強烈に意識し、また目指しているであろう感じは作品にも濃厚に反映されているわけだが…。

ここで書くのは作家・中上健次のお話というより、彼の小説原作の映画を何本か見ているので、その映画について少々書こうと思います。

中上映画の中で誰にでも分かりやすく、また感動できる映画としては、現在早稲田大学の講師だが教授になっている柳町光男監督の『19歳の地図』があげられます。
原作となった小説は『黄金比の朝』。ストーリーは若干映画と違います。確か、小説は兄弟の話だった気がする…。
で、この小説自体は中上健次がデビューしたてのもろ大江エピゴーネンだった頃の短編なので、大江の初期小説に非常に似ています。
中上は大江エピゴーネンをやめた後の作品が素晴らしくよいので、小説については、このくらいしか言うことはありません。
映画自体は非常によくできていて、オススメです。
柳町監督と中上のコンビは『火まつり』でも見られます。見ていませんが。

次は見ていないのだけれど、『十八歳、海へ』。これはどうして映画にしたのかよく分からない。正直、この映画の原作になっている中上の短編『隆男と美津子』はぜんぜんよくねーから。つーか、あまりに印象が薄くて覚えていない。これも初期の小説だったはず。

次。
長谷川和彦監督の『青春の殺人者』。
中上本人がクランクアップ直後の長谷川和彦との対談で、出会い頭に、「お前、才能ねーよ」と言っていた映画。
長谷川は発言をスルーしていたが、実際ははらわた煮えくり返っただろうな…つっても、言いえて妙だが、指摘ははずれておりません。
小説はそこそこよいのに、映画の出来はそれほどよくないのは事実。
原作は『蛇淫』というやや中期の頃に描かれた短編でした。確か。

で、次は『蛇淫』と書かれた時期が被っている(筈)神代辰巳の『赫い髪の女』。
原作は『赫髪』という短編。
これは映画としても完成度が高く、また小説もよいです。
この映画は日活ロマンポルノとして製作されたものだけれど、ロマンポルノ自体、今のAVとかに比べると全然エロくないし、また、大島渚の『愛のコリーダ』なんかと比べても、この映画はエロくないと思うんですが、エロを求めて見る映画ではないので、そこに注目しても仕方がない。
神代辰巳は映画を物語だとか内容で考えている監督ではないので、画面もドライだし、また意味に収斂していくような撮りかたをしません。
淡々と、主人公とヒロインの愛欲の日々をカメラに収めているだけの映画ですが、強烈な印象を残します。

枯木灘 (河出文庫 102A)

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さて、中上の小説といえばガテン系が必ず登場します。所謂、トラックの運転手とか土方とかが主人公になる場合が多い。ついでに言うと、中上健次ほどサービスエリアを上手に書く作家はいない。作品で言うと『枯木灘』つーか、秋幸もの、『日輪の翼 (小学館文庫―中上健次選集)』がそうですな。
そういう意味でも、中上=マッチョ、というイメージが付きまとうわけで、そうした男臭い設定において某大塚という人は、悪口を言いたがりますが、そもそも論が破綻しているのでお話になりません。
中上を擁護するけど、ぜんぜんマッチョ文学などではない。むしろ女性的な繊細さが強いわけです。村上龍はマッチョだけど。
どこに違いがあるかといえば、単純だが登場人物の性格です。中上の書く男は、普段男臭いんだけど、たまに子供っぽい側面を垣間見せる。そこが非常に魅力的なわけで、女にもてるというループがある。男の無邪気さでは、谷崎潤一郎と通じるとさえ思えるわけです。
一方、村上龍の書く男は説教親父になりさがっているので、その点でも両者はかなり違うと言える。

で、こんな分析は何も評論家でなくても、読めばすぐに分かることなのだけれど、大塚英志はそうしたことにはまったく触れずに、中上は男根主義文学と言い張るので、論が破綻していると思うわけ。

しかしだな、竹熊健太郎もそうだけど、何故、新人類世代は中上健次を葬りたがるのか。しかも、そこで必ずと言っていいほど持ち出すのが、晩年の中上が原作をした『asin:B00007C7K5:title』という劇画漫画。実際、この漫画を読んでいないので詳しいことはいえないが、恐らく彼らの言うとおり失敗作であることには違いない。つーか、中上健次の小説は6割方失敗作なので、成功作をやたらに望む方が、中上を知らなすぎる。

で、そうした新人類世代がこの漫画を山車に中上を葬ることに躍起になるので、批評空間の面々と確執が深まっているように思えるのはオイラだけだろうか。

そうして、大塚英志竹熊健太郎もこぞって中上にはストーリーセンスのかけらもなかった! 漫画の原作させれば一目瞭然! ちっとも分かっていない(wwwww)としたいようですが、この漫画や上記に書いた何本かの映画が失敗している理由は、中上健次の作品自体に問題があったというより、彼の作品をメディアミックス化する側の単純なミスマッチでしかなかったと思う。

稀有な個性を持っている作家には、それなりに稀有な個性と才能を持った監督なり、漫画家と組ませなくてはうまくいかないわけで、それが証拠に神代辰巳の『赫い髪の女』は成功していたし、忠実に中上の世界観を再現していたと思うのよ。
仮に、竹熊や大塚のように中上に問題があるとすれば、神代辰巳の映画だって確実に失敗したはずだった。

では、相性の問題が原因だったとすれば、中上健次の原作を漫画として絶対失敗させなかった漫画家は、誰か、という話になる。
例えば『南回帰船』のストーリーは竹熊健太郎によると次のように要約される。

伝説のバイク・レーサーにしてボクサーであった父親を持つ少年(草壁竹志)が、父の軌跡をたどるうちに清朝の末裔である中国人貴族と右翼の大物とによる国家的陰謀に巻き込まれ、自らの「血」の宿命に目覚めていく青春マンガ(略)
多くの人物と出来事が複雑に入り乱れ、あまりにも展開がめまぐるしい。重要かと思われた人物が次の巻ではあっさり消えていたり、レースマンガになったかと思ったら、いきなり主人公がボクシングをはじめる。それも何の伏線もなく、右翼の大物が主催する闇の賭け試合で、ボクシング経験ゼロの竹志が本物のマイク・タイソンと闘って勝ったりする。
荒唐無稽、支離滅裂なストーリー展開を読んでピンときたあなたは偉いです。そう、こういうストーリーを平気で描けてしまう、否、描くことを許されている唯一の漫画家がいるとすれば、現在2人しかいない。
一人は水木しげる
もう一人がその弟子にあたる池上遼一
つまり、中上健次という人は漫画においてのその資質が果てしなく水木プロに近かったと言える。上記のストーリーの無茶苦茶で強引なところなんて、まさにオイラの大好きな『asin:B00007CECJ:title』じゃないか!

池上先生を初めて読んだとき、作家性とか、抜群な才能には本当に感動したわけで、「いやあ、すっげー天才だよっ」と思ったわけで、それと同時に資質的には中上健次しか思い出さなかったし、才能のずば抜け方が似ているなあと驚いたわけです。

あえて、大塚英志竹熊健太郎に反駁すれば、池上遼一に描かせてから検証して欲しいと言いたい。当然、成功するという保証はどこにもないが、逆に中上がどんな作家と組ませても失敗したという証拠もないわけですから。
そうしたミスマッチの問題に目を瞑り、中上を批判するのは論としてあまりに脆弱ではないか、と思うので。

それなのに、中上が『スピリッツ』の編集者に電話して「もう一回、漫画原作をやりたい」と懇願した時、読ませた参考資料というのが、『巨人の星』『バイオレンスジャック』『寄生獣』っつーのはあんまりじゃないですかっ。
どうしてそこで、小学館が抱える天才作家・池上遼一先生を参考資料で差し出さないのっ! もし、中上が池上遼一に出会っていたら、間違いなく白羽の矢を立てたと思うのに…
イジワルとしか言いようがないですな。

しかしそれにしても何故、彼ら(竹熊・大塚)が不必要なほど中上を貶めたがるのか分からない。生前に殴られたんですか? と疑いたくなるよ。
そもそも、中上の漫画原作が失敗したことは、ファンから見れば騒ぐほどでも字数を割くほどのことでもない、すっげーーーー瑣末なことに過ぎないんですけど。そんなに鬼の首とったみたいにされてもなあ。「だから何だよ」としか思わない。

ちなみに、ガテン系に話を戻すと、最近、よくトラックの運転手が事故で荷物を駄目にすると同時に、命拾いしたのに、自殺していたというニュースが報道されております。
これは個人事業主扱いをされているので、事故で命が助かったとしても、莫大な損害賠償が待っているので、命を絶つせいです。