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先回りして生きる人/田中康夫『なんとなく、クリスタル』

なんとなく、クリスタル (新潮文庫)

なんとなく、クリスタル (新潮文庫)

長野県知事田中康夫の小説です。実ははじめて読みました。偶然、先日長野に行ったのですが、そこで読み終わりました。
解説を読んだのだけれど、この小説は当時ベストセラーになり売りに売れたわけですが、内容的に言えば、大したことはない。

当時の80年代の若者文化をふんだんに取り入れて、小説という体裁にまぜただけ。小説として読むと、非常につまらない。物語に起伏はないし、見せ場もないし、「で、何が言いたかったの?」となります。
しかし、それは作者の意図どおりでして、メインは小説の本文ではなく、有名ですが、横にあった<註>だったりします。つまり、この<註>の方がメインより読み物として面白い、といった構成になっているわけです。そうしたアイデアの一本勝負ともいえるこの小説は、そこに注目された(としか思えない)おかげで売れに売れた。

どうしてそのようなことをしたのか、と言えば、この小説にはあらゆるDCブランドや有名店、音楽などが固有名詞でばんばん登場します。こういうことを最初に、先駆的にやったのは村上春樹とか、後には村上龍だったりするわけですが、正直、知らない人にとっては何が何だかわからないわけです。極端に言えば知っている人にとっては「これは〇〇的な音楽だから、こうした〇〇的なシーンで登場人物がこの曲を聴いているのか」とわかっても、知らない人にはその曲が登場する必然がまったく理解できないわけです。たとえ場面と文脈なく固有名詞が登場したとしても、端的に言えば、それは作者の「独我論」にしかならないと思います。
で、そういった一定の予備知識を必要とさせて、小説のムード作りに努めるといった手法は広く文芸評論家たちの批判の対象とされたわけですが、田中康夫はそれの先回りに努めたというわけ。

現代は固有名詞の時代でもあるわけですが、その為、こうした手法を無自覚に取り入れる作家は増えています。しかし、こうした「公共的合意」を必要とさせること自体、評価に値しない、とオイラなんかは思っています。そもそも、固有名詞を登場させることで物語にリアリズムを与えるかと言えば、そんなことは全然ないし、流行ものだったりすれば、何十年後には「寒い」もしくは「わからない」といったものにしかならないわけですから。
固有名詞が果たす機能と言うのは、知っている人へのみ向けられた「内なる言葉」なだけで、それを回避することに努めようとしたのが本作品だったりしますが、<註>を読んだところで、固有名詞が何を指しているのかは一旦は理解しても興味がなければすぐに忘れるわけです。こうした情報を与えても与えなくても、興味がなければ情報は滑っていくばかり。

で、どうしてこのような<註>を入れたのか、といったことに関して田中康夫自身が次のように言明しています。

ブランドは別に、物質的なブランドばかりじゃないんです。精神的ブランドも存在するのです。たとえば、芸術院の会員であること、一部上場会社の部長職にあること。これらは、すべて、精神的ブランドです。人々は、こうした客観的事実で、他の人を判断するじゃありませんか。若い人はどこのブランドのバッグを持っているのか、どこのディスコの常連か。こうしたことで、他の人を判断するのです。
<略>
でも、ブランドとか場所というのは、わからない人には、まるっきり、わからないものでしょ。そうすると、本当に仲間内だけの小説になってしまう。だから、註をつけたんです。

とまあ、オイラが今書いたようなことをおっしゃているのだが、この小説を絶賛した江藤淳は、

いまの東京のいったいどこに、都市空間などというものがあるのだろうか。そんなものがもはや存在していないことを、完膚なきまでに残酷に描き切ったところが、田中康夫の『なんとなく、クリスタル』の新鮮さではなかったか。
(江藤 淳/蓮實 重彦『オールド・ファッション―普通の会話』より)

といった読みや、加藤典洋の、

日本文壇(?)は、日本はいまアメリカなしにはやっていけないという思いをいちばん深いところに隠しているが、それを、アメリカなしでもやっていけるという身ぶりが身ぶりでしかないのは、彼らが貧乏を恐れている(!)からである。「アメリカ」なしでやる場合、彼らは経済的困窮を覚悟しなければならないが、いまよりも生活程度が下がることを恐れる彼らの本音が、『なんとなく、クリスタル』にあらわに現れていればこそ、彼らはこの作品に生理的な反応を生じているのである。
<略>
文学もまた、1960年以降の高度経済成長の恩恵をこうむってきた。そのタブーに似た事実のただなかから、一つの小説が書かれた時、それは現今の日本文学の恥部に触れ、何よりも、戦後の「日本文学」が「恥部」をもっているということを知らせたのである。
(加藤 典洋『アメリカの影―戦後再見 (講談社学術文庫)』)

といった読みに関しての、田中康夫自身の本当の答えは

一体、誰が読むのかもわからない原稿書きに飽きると、気分転換と称して、ローラー・スケートを履いて校内を友達と一緒にグルグルと回っていたあの頃は、すべてが無意識だったのだ。そう思う。

深読みしすぎだということです。前述の薀蓄と言うのは後付です、と自分でばらしているのだから。

じゃあ、これは一体何かといえば詰まる所、士郎正宗の「攻殻機動隊 (1) KCデラックス」の余白の解説といったマニアックなものではなくて、オイラが昔に「まんだらけ」の同人コーナーで買った、唐沢俊一解説の「UA!ライブラリー」発行の同人誌と同じ次元だと思うのです。
「UA!ライブラリー」の本は、漫画の余白に「読者の突っ込み」が書かれていて、それがある無しではえらい違いで、この突っ込みなしにはどうにも「参ったなあ」と思わせる昔の貸本を面白くしてくれる効果があるわけです。
つまり、『なんクリ』の<註>は、面白くない小説を少しでも面白くする為の機能しか備わっていないわけで、深い意味などないというのが本当の答えではないでしょうか。だから、真剣にこの小説はいかなるものかを解説するだけ徒労だと思うのです。

内容的な感想を少しだけ申しあげますと、ヒロインの恋人(当然♂)の喋り方が、カマっぽくて、それがそのまま田中康夫の喋りに被るのが如何ともしがたい、というか何というか…。

あと、大塚英志氏が『サブカルチャー文学論』で田中康夫はマッチョだ、テメーなんかサブカルの片隅にも置けねー、とやる気マンマンにぶったたいておりました。


<初>田中康夫『なんとなく、クリスタル』(文庫)★★