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コメントを書きこむ前に、こちらの記事に必ず目を通してください 「処刑宣告

コメントレスについて

今までのブログの運営方針としては、どんなクズコメでも全てのコメントにレスを返すことをモットーにしてたのですが、体調の問題なども含め、現在そこまで手が回らない状態になっています。

その為、一定期間(半年)経過したものに関しては、申し訳ありませんがスルーという形で、レスはいたしません。半年以上経過してもレスがつかなかった場合は、以降も「なし」だと判断してください。

期間内のコメントへのレスについても、今までのように全部にはいたしません。気が向いたものにだけレスをします。
よって、今後しばらくは全てのコメントにレスはせず、基本、放置の方向に持っていくと思ってください。

ただし、全てのコメントには目を通していますので、罵詈雑言を書き込んでくださる方も含め管理人には全部届いております。

コメントへのレスはせずにブログの更新だけ行うことがあると思いますが、レスをするためにやってるブログではないため、その点のみご了承ください。

『マタイ伝』

わたしが来たのは地上に平和をもたらすためだ、と思ってはならない。
平和ではなく、剣をもたらすために来たのだ。
わたしは敵対させるために来たからである。
人をその父に、娘を母に、嫁をしゅうとめに。
こうして、自分の家族の者が敵となる。
わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしくない。
わたしよりも息子や娘を愛する者も、わたしにふさわしくない。
また、自分の十字架を担ってわたしに従わない者は、わたしにふさわしくない。
自分の命を得ようとする者は、それを失い、わたしのために命を失う者は、かえってそれを得るのである。

10:34-10:39

コメントについて

ブログは再開したけど、暇になったわけではないので、コメントのレスについては相変わらず放置しているわけだが、気になったものだけ先行してランダムにレスを返していこうと思っている。
その前にコメ主に対し、全体的に言えることを先に書いておこうと思う。

最初に断っておくが、おいらは実生活において怒ったことがない。思春期の頃までは、親と怒鳴りあいのケンカをしてた記憶があるが、20歳を過ぎた頃から他人とケンカをした記憶が一切ない。
相手が怒る場面は何度かあったが、こちらが声をあらげたり、言い合いをしたり、押し問答をしたりといったことは一度もない。
手を出さないのは、そういう状態になった相手をまともにとりあうのが面倒なだけ。

ケンカをしない理由は、ケンカをしている時の自分が好きではないことと、無謀で冷静さを欠いた議論や言い争いをしたくないだけです。

さて前段はこの程度にして、コメントについて。

一番よくあるのが、揚げ足取りをするためだけのような煽りコメントなわけだが、何を言われようと所詮、人様の陣地で喚いてる以上、動物園にいる檻の中からウンコ投げてくるゴリラと一緒で、おいらは鼻くそでもほじりながら、投げられるウンコをかわすだけという簡単なお仕事に過ぎない。

不愉快にさせたいのか、説得したいのか、黙らせたいのか、どういう意図でやっているのかはよく分からないけど、ぶっちゃけ言うと全部無駄。この程度の言説で黙らせようとしてるのなら、考えが甘すぎる。この程度で黙るようなら、このブログはとっくの昔に閉鎖してます。もう9年以上やっているんですけどねえ。

議論したいなら、自分でも同じようなブログを作るか、持っているのであれば晒すなりして、URLでも貼ってってくれれば読みに行きますよ。読むだけで感想を書くかは分からないですが。
明らかに無責任な書き逃げ的な誹謗中傷や煽りを、相手にするほど若くもないし、暇じゃないです。こんなブログにうだうだ文句書くだけ、時間の無駄だと言って差し上げたい。
一介のど素人のブログに張り付いて、ある程度の時間かけて文章書き込むことより、他にやらなきゃいけないことが人生にはいっぱいあるはずなんだけどな、普通の人間だったら。
何故なら、この手のコメントにいちいち動揺なんてしないし、「ふーん( ´_ゝ`)」と思って読んでいるだけで、何かしらの精神的打撃を与えたいのであれば、何の効果も成果もあげてないと、心の底から言って差し上げたい。

次に「そこまで文句つけるのなら、何がいいのか言ってみろ」的意見だが、対案がなければ批判するなっていうのは、ガキの頃までだったら許される意見。

小説を書かない奴は小説を批判するな、漫画を描かない奴は漫画を批判するな、映画を撮らない奴が映画の批判をするな的な議論の不毛さに気づいていないのも最大の致命傷なわけだけど、そうでない奴でも語る権利や自由があるからこそ、言論の自由もまたあるのです。

そして「何がいいのか」といった答えを求めないでください。教師でもあるまいし、どうして答えまで教えるような世話を焼かなくてはいけないのか。

このブログは「答え」を出すためにあるわけではない。問題をふっかけることはあっても、答えまですべて導き出すような親切心は持ち合わせてません。
疑問を抱えたなら、自分の頭を使って、足を使って探してください。そうして考えがまとまったらブログにでも投稿して、URLを送りつけてくれれば見ますよ、という話です。

読者は本当のバカかもしれない

「読者はアッパッパーだからバカにも分かる話を描け」と編集者から言われたという話をよく耳にするが、実際に過去、自分も同じことを言われた経験がある。
その時は「読者をバカにすんな」と息巻いたわけだが、最近では本当にバカかもしれない…と思うようになってきた。

これは漫画における「読解力のスキル」についての話だ。
例えばどんな漫画にも「オチ」がないと納得しない人を見かける(関西人と言うわけではないようだ)。
ストーリーを放り投げた感じで終わるラストを全く理解できない人が確かに存在する。
さらに言えばモノローグがなければ、キャラの表情だけでは心情がわからないと言い出す始末だ。

経験主義的なことだけは言いたくないが、つげ義春でもいい、あの辺一帯の昔の『ガロ』系作家の作品をこういう人が読んでも、全然よさが理解できないんじゃないかと思うと、同じ漫画読者として戦慄してしまうのだ。

そういう人たちに共通して言えるのは確実に読書経験が浅いということ。
「経験」とは「量」の問題じゃなく「質」の問題だ。そういう人と話をすれば分かるが、恐ろしいほど過去の名作を知らないし触れてない。
漫画に限った話じゃなく、有名な映画や小説や音楽も知らない。とにかく何も知らない。しかし何故か上から目線。←ここ大事

昨今「無知・無学であることを自慢する」人たちが、ものすごく増えているんじゃないかって気がする。特に若い世代ほど多い気がするのだ。

数年前、岡田斗司夫の「オタク・イズ・デッド」論争というのがあった。

かつてSFを知るためには何百というSF小説を読まなければならなかったが、スターウォーズがビジュアルでその魅力を伝えてしまってからは、本を何百冊も読んだり、原語版に当たったり、という苦労は誰もしない。同じSFのセンスオブワンダーであっても、一度絵という判りやすいものが出来ると、それ以降は堅い小説のような難しいものは受け入れられないし、その流れは止めようがない。ファンは増えたけど、SFファン以前とは違う人々になってしまった。

同じようにオタク文化においては「萌え」という言葉がオタクを判りやすく伝え、仲間は増えたけど同じようにオタクは以前とは違う人々になってしまった。オタク文化を守ろうと思ったら在日文化のようにその文化を規律で固めていくしかないが、もはやそんなことは不可能なのだ。

オタクは死んだのである。

オタクは死にました - kasindouの○記

しかし壇上で「オタクは死にました。みなさんの言葉を広く伝える評論家もこれからはいません……」と語っているうちに、感極まって壇上で言葉を何度も詰まらせる。

オタクは死にました - kasindouの○記

彼がここで泣きながら訴えたのは、かつて「オタク」と呼ばれた人々は、知識や情報量の多さで分析にまで至れたし、何に価値があり何に価値がないのか判断ができた。
しかし、今の若い世代は溢れる情報に翻弄されてるだけで、一時の流行に身を委ね、その場しのぎの快楽主義者に成り果てた。
こうした事態を嘆いての岡田氏の発言だったわけだが、数年たった今、とてもよく分かるのだ。

評価の高い作品と言っても二種類ある。
評論家たちの間で評価が高い場合と、口コミだけで評価が高い場合と。この二つは全く違うわけだが、ここで指摘してる人々は恐らく口コミしか信じない人種であり、専門家の文章など微塵も目を通さないし耳を貸さない。

評論家といってもピンキリなので意見を聞くに値しない人も当然いる。しかし同時に鋭い指摘ができる人もいる。そうしたプロの意見をガン無視して、あーだこーだと趣味だけで作品を語ってる人が今、非常に多いのだ。

漫画という表現を一つとってもその可能性は無限であり、いまだ未知数な部分は限りなく多い。
若い世代の人たちの漫画に対する文法、様式、コマの配置、流れやテンポといった、そうした諸々の表現に対する読みの浅さがとにかく気になって仕方ないのだ。

自分は気になった作品については、ネットや時には書物も利用して評価や情報を調べることが多いわけだが、そうして得た知識を先ほどの経験の浅い人たちに言うと必ず、「そんな風にいろいろと調べるから嫌な部分まで知って頭でっかちになるのだ」と真顔で言う。

どうやら「無知」であることの方が、「純粋」に作品を理解できると思い込んでいるようだ。

「敗者の美学」に酔ってるただの負け組

最近よく思うのだが、マンガを長く描けば描くほど、自分の理想とかけ離れてることに気づくことが多くなった。

「売れたら描きたいものを好きなだけ描かせてやる」的なことを編集者は新人漫画家に言うことが多いけれど、実際、描きたいものが「理想」である場合、そんなものは一生かかっても描けないんじゃないだろうかと思うのだ。

作風とは所詮、洋服と同じで、いくら上等なブランドものを着ても、他人から見た時、着てる人によって服の価値が変わってしまうように、作家も自分の身の丈にあったものしか描けないし、また描いてはならない。
ならないというより、どうせ描けないので、無理しても失敗するだけだという意味なわけだが。

漫画家の中には売れるようになったことで、デビュー時より自由な作風になっていく人もいるが、必ずしもそれは本人が望んでいた「理想」を描いているわけじゃなく、むしろ描けるものを描くようになっただけの話じゃないかと思ったりもする。
本当のところは作家本人にしか分からないわけだが。

ただ自分に限って言えば、若かった頃は目標とするもの、理想とする作品を、いくらでも描けるような気がしたし、自分はいくらでも自由で無限だ、といった誇大妄想と根拠なき自信に支えられていた気がする。しかし年を取ったせいか、今では「理想」には決して近づけないことばかりを実感するようになった。

むしろ今、描いているものは「理想」と逆な気がするし、そもそも目標としてる作風や作品が思いつかない。憧れの漫画家がいて、真似たくても、才能の限界や脳みその構造の違いを思い知らされるばかりで一歩も近づけないでいる。
とどのつまり、人は自分に見合った、できる範囲内のことしかできず、作家は己の限界を知ることにより、逆に作風を確立していくものなのかもしれない、と思ったりするのだ。

昔話になるが、自分は20代前半まで、とある漫画家の完璧なエピゴーネンだった。その漫画家の影武者になりたいと願い、作風や絵柄を徹底的に勉強し必死で真似て、コピー作家に成り果てた。その時はその状態に非常に満足していたし、自分は「自分」という作家にまるで興味がなく、とある漫画家を通して見てもらえることに存在意義を感じていた。
コピーやクローンが、オリジナルがあってこその存在価値しかなく、コピー自身がその状況にご満悦という状態だ。

そんな自分をみた友人が「とある漫画家を真似したいと思うような奇特な漫画家志望者なんて普通はいない。真似るならもっと別の人気のある漫画家を真似る」と言われたが、恐らく、とある漫画家が売れっ子ではなく、知る人ぞ知る的なカルト作家だったから、そんなことをぼやいたんじゃないかと思う。
実際、自分以外に影響を受けてると思しき漫画家にはついぞお目にかかった試しがない。

影武者作家となり、本人公認済みとはいえ、やがて模倣をやめ作風を変えていったわけだが、これにはいろいろと事情があったけれど、コピー作家だったことによるトラブルに巻き込まれたことも理由に関係している。こんな面倒くさいことに巻き込まれるくらいなら、いっそやめようみたいに思ったのと、長く真似てるうちに段々と飽きてきたというか、勉強しつくしてしまい十分だなって思い始めたのが岐路だった。

とある漫画家の模倣を始めたのは、もちろん作風に対する憧れが一番強かったわけだが、本当は単に「こういう漫画家になりたい」という立ち位置やスタンスに憧れていただけだったのじゃないかと、今にして思う。

そういう憧れが、今は完全に消え失せたかと言われれば、実はまだあって「所詮、自分には万人受けする作品なんて描けない。だったら一部の人に熱狂的に受け入れられるような描き手になりたい」。こうした夢は今も尚、捨てきれずにいる。

しかし実はこれ、裏を返せば人気者になれなかった奴の僻みのようなもので、どうあがいても多数派の人気者になれないのだから、せめて手に入りそうな範囲で夢を見させてくれという甘い考えでしかない。そう思うことでしか、自分の拠り所を見つけられなかったとも言える。

すべてはモテるためである (文庫ぎんが堂)

すべてはモテるためである (文庫ぎんが堂)

それに繋がる話として、今週の『TV.Bros』を読んでいたら、二村のインタビューが載っていた。
理論武装したカルチャーオタクは、普通では人気者になれなかった故に知識や情報を蓄積し、メジャーなものをバカにし、『敗者の美学』に酔い、そうすることで結論としては少数派の人気者になりたい、つまりは『モテ』たいだけだ」みたいなことを言っていた。

全部じゃないけど一理あるな、と思った。さっき書いた通り、自分は人気者にはなれなかった、世間的には負け組であり、だったらマイナー集団の中でだったら自分の場所を見つけられる、認めてもらえるかもしれないと思い、理論武装した経緯を、決して否定はしない。

しかし、いろいろな作品を見たり知っていくうちに、「モテ」とは全然別の場所に辿りついた。つまり、この世には相対的評価などまるで必要としない、絶対的価値のあるものが確かに存在している。自分は有象無象の中からそれらを選別し、的確に見抜いて評価していきたいと思うようになった。

故に、信者をたくさん抱える作品や作家から漂う、胡散臭さやペテンが鼻について仕方なくなった。真理や真実を追究した末、これらを徹底的に叩くことで、普遍的価値を守りたいと思ったわけだ。要するに、それらと相容れない作品を批判することによって、自分の愛する作品を守ろうとした。
そのせいで、信者殿が大挙して押し寄せ、荒らされた末が、今のこのブログだ。

しかし自分はメジャーなものの中に混じってる、下らない作品をこきおろしたことはあっても「メジャー」であることを理由に、それらをバカにしたことは一度もない。
マイナーカルチャーにも同じことが言えて、素晴らしい作品もあればクソみたいな作品もある。そこではメジャーだとかマイナーだとかは一切関係ない。下らなければ批判するだけのことだ。

そうなってくると最早、二村の言っていた「モテ」などといった理由は、どっかいってしまって、人気者どころか、むしろ嫌われ者になった。

冷やかしでこのブログにきて、誹謗中傷していく奴は、せいぜい鼻でもほじりながら「ブログ主は結局のところ『敗者の美学』に支えられているだけの負け組」とでも思って、笑って眺めてればいい。
どう思われようが今さら人の目なんて気にするような人間ではない。